もののあはれ//いとをかし

今週のお題は「読書感想文」、ということで、たまには祖国日本の古典文学を、しかも雅な平安女流文学の双璧(と言われてると思う)、源氏物語と枕草子とを久しぶりに再読した感想文を書いてみることにする。

 

まずは日本最古の大河恋愛小説、源氏物語。

中学生の頃、私はこの作品の良さが理解できなかった。

光源氏は帝の後継ぎではないけどとりあえず息子なので高貴なお方、何をしても所作が優れており美しい輝きがあたりに広がる、という設定には、お前はピカチューか?と突っ込んでいた。

そして物語も共感できると思えなかった。

人妻(空蝉)に夜這いしてストーキング、義理母(藤壺)との間に不義の子(のちの冷泉帝)を作る、幼女(紫の上)を実質誘拐連れ去り、腹違いの兄(東宮のちの朱雀帝)のお妃候補(朧月夜)と節操なく関係してしまう、さらに奥さん(葵の上)は浮気相手(六条御息所)の生霊に呪い殺されるオカルト案件発生、その他にもいろいろと中学生当時の私にとっては衝撃的なエピソードが繰り広げられ、私はすかさず光源氏にヤバい人認定をしたのだった。

ところが今読んでみると、中学校時代には受け入れ難かった事柄も容易に理解できる自分に気がつく。

平安時代は一夫多妻が普通だったこと、光源氏は華やかな特権階級生活を送る反面で権力争いからストレスで心労の多い人生を送っていたこと、人気者の光源氏とお付き合いして舞い上がっていた朧月夜が最後には冴えない朱雀帝の方が自分のことをより深く思ってくれていたことに気づくこと、若い頃には光源氏と遊び仲間だった頭中将が年をとったら政敵に変わってしまったこと、正妻格の紫の上が晩年は光源氏が他の女のもとに通ったり女三宮を嫁に貰ったりしたのを気に病んで命を削ってしまったこと、などなど沢山の登場人物が時間の移り変わりに従って有り様を変化させていく。

源氏物語は光源氏という貴公子と彼にまつわる人々を描いたようでいて、実は紫式部の目を通した仏教的世界観が綴られていると私は思う。

もし紫式部が現代に生きていたのなら、映画、TVやスマートフォンのない時代の恋愛娯楽長編大作として源氏物語を書いたのか、隠れ仏教文学としてなのか是非聞いてみたい。

 

次に、紫式部とライバル関係にもあったらしい、清少納言の枕草子。

こちらは、中学生当時の私にはたやすく受け入れ共感できる内容だった。

例えば、朝の仏教の講話の時、お坊さんがおじさんだと眠くて辛いけど若いイケメンのお坊さんなら熱心に拝聴する、とか、雪が降った時に中宮さまが『香炉峰の雪はどのような感じなの?』と尋ねられたので御簾を高くかかげて見せるという白居易先生の名句**を実演する機転とユーモアに、この人は友達になれる!と思ったのだ。

**香 炉 峰 雪 撥 簾 看

清少納言の歯切れの良い本音に対する私の共感は中学校当時から変わっていない。

身の回りのもの、季節や自然、日常生活全てについての筆者の好奇心は、読者にも伝播しさらに新しい好奇心を作りだす。

清少納言という人は、毎日を楽しむ達人だったのではないかという気がする。

 

源氏物語は映画のように登場人物の織りなすドラマを眺めるように進行する一方、枕草子は筆者・清少納言の視点がズームアップされては次の対象物に移っていく。

まるで正反対の二つの作品であるが、どちらも日本語の繊細な表現力を駆使しているという点では共通していると私には思われる。が、そんなことを言ったら紫式部と清少納言両方から、『一緒にしないで、私の方が上手に決まってるでしょ!』とクレームされてしまうかもしれない、と妄想したところで今日の読書感想文はお開きにします。

 

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(特別出演)今日のオダリスク嬢